手塩にかけて
手塩にかけて

奥能登塩田村 -浜士 登谷 良一さん-

奥能登塩田村 -浜士 登谷 良一さん-

四百余年の歴史を今に受け継ぐ
奥能登揚げ浜塩

塩づくりのできない冬場は、釜炊きに使う薪などの材料集めに奔走する。

四百余年の歴史を今に受け継ぐ 奥能登揚げ浜塩

 万葉集には「藻塩焼く」と記されており、そのころは海藻に付着した海水を原料としていた。その後、塩田を使用した製塩法が確立、大きく「揚浜式」と「入浜式」という2つの製塩法が取り入れられるようになった。大きな違いは海水の汲み上げ方。揚浜式では人力で海水を汲み上げるのに対し、入浜式では潮の干満の差を利用して海水を引き入れるという方法。いずれにせよ、塩田に蒔いて濃縮した海水(かん水という)を平釜で煮詰めて結晶化するという、この2つの製塩法は長く日本の塩づくりを担うことになった。

明治に入り、塩を専売制とすることを国が制定。昭和になると流下盤(ゆるやかな傾斜のある土地)と枝条架(竹の枝などを組んで立体的にしたもの)を組み合わせてかん水を作る「流下式塩田」への転換を経て、電気エネルギーによってかん水を作る「イオン交換膜法」へと切り替わっていく。さまざまな発展を遂げた製塩技術だが、昭和46年(1971年)に塩業近代化臨時措置法が成立したことで海水から直接、塩を採ることができなくなってしまう。これにより、約2000ヘクタールあった塩田が姿を消すことになるが、文化財として唯一、塩田での塩づくりが続けられてきたのが能登の揚浜式塩田である。特色ある塩づくりが各地で盛んになったのは、実は平成になってから。塩の専売制が廃止され、製塩も販売も、海外からの輸入も自由になり、製塩業界は急速に拡大。さまざまな製塩技術を取り入れ、製塩所ごとに特色のある塩づくりが盛んになる中、年もの長きにわたり変わらぬ技法を守り続ける奥能登塩田村の塩づくりは、異彩を放っている。

長年の経験と、勘がものをいう職人技

四百余年の歴史を今に受け継ぐ
            奥能登揚げ浜塩

 目の前の海に入って直接、海水を汲み あげて運び、塩田に蒔く作業は重労働。汲み上げた海水は、弧を描くように霧状 にまんべんなく、塩田に撒くのがコツだとか。製塩に従事する職人のことを、能登では浜士と呼ぶが、浜士のように上手に海水を撒くことができるようになるまで年はかかるといわれるほど、高い技 術を要する作業だ。最盛期を迎える夏場には、一度に1000リットルもの海水を塩田に撒き、天日の力だけで塩分濃度を高めていく。天日ということは、雨が降ったら作業はできないということ。塩蒔きを行うかどうかは、その日の雲の流れや水平線の見え方など、浜士の長年の経験と勘で決まる。天日の力で塩分濃度を高めた砂は集められ、海水で漉してかん水を作り、それを釜で煮る。薪で6時間ほど炊く「荒炊き」のあと、いよいよ「本炊き」は 17~18 時間かかるという大変な作業。「釜炊きの火加減で塩づくりは決まる」ともいわれ、いっときも気が抜けない。夏場の釜場は夜でも60度を超えることもあり、骨の折れる作業が続く。最も難しいのは、塩を引き上げるタイミング。炎の様子、余熱の予測、塩の形 の変化...。わずかでも判断を誤ると、苦みのある塩になってしまうという。
引き上げた塩は、居出場と呼ばれる、塩を乾燥させる場所に移し3日間ほど放置して苦汁を切れば、サラサラの塩が完成する。 江戸時代から続く手間を惜しまぬ作業工 程は、「手塩にかけて」という言葉を実感 させてくれる。